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2018年01月25日

124/「田の字型」の成立

淡路島に家のプランを考える上において、民家が今のプランに収束していった経緯を知っておくことは大切なことだと考える。特に現代のように自然に抗って、自然に打ち勝って人が物事を行うのではなく、基本スタンスとして、自然に寄り添わざるを得ない暮らしを行っていた時代に積み上げられた知恵や知識を参考にしないわけにはいかない。ここからは参考文献からの抜粋になる。

民家とは農民、漁民、職工人、商人など近世の被支配層つまり「庶民の住まい」のことを指し、近世民家は「農家」「町家」「漁家」の3種に大別できる。
近世民家の成立は、畿内とその周辺では早くて17世紀中、中部、関東、中国、四国では17世紀後半ごろとされている。東北、九州ではそれより遅く17世紀末から18世紀初。この時期に民家は、生産の担い手であった「本百姓層」が中心となって、中世の名手や地侍の系譜を引く「土豪層」の住宅をまねる形で劇的に発展したという。
近世民家の平面構成を見る上で重要な視点の一つが、ハレとケという考え方。ハレとケの空間を明確に区別し、日常生活の場である「居間を中心にした間取り」が形成されたことにある。本百姓の近世民家は機能分化による部屋割りが行われており、居間と客室(座敷)にあたる部屋が必ずあること、独立した寝室をもつ間取りが東北から九州まで全国的に分布すること。関西では表に広い客間、座敷、その背後に2室を並べた前座敷三間取りが主体。さらにそれらが発達して田の字型である四間取り(田の字型)が形成され、平入民家プランの代表格となった。書院座敷が上層農民によって取り入れられ、19世紀になると一般農民の間にも普及しだす。日本の農家を代表する間取りである「四間取り」の成立はこの、座敷摂取のプロセスつまり書院座敷が庶民にもいきわたったことを示すと同時に、多様性を見せた各地の特色は収嶮に向かっていく。このように「座敷」は近世庶民にとっては羨望の的であり、家格を表現するとともに、プランの発展上では全国的な収束と均質化を担った。『日本の建築意匠』から抜粋。

「居間を中心にした間取り」は今も同じである。家族構成が核家族になり、個人の部屋が与えられ、nLDKに代表される標準化した間取りが一般的に広まった。居間は公の場としての機能はほとんどなく、家族が集まるための場として機能している。小さく別空間に畳が敷かれた和室としてその名残をとどめる程度である。
和室8帖2